「weariness」って「疲労」なの?

今日もサマセット・モームの『Red』でお勉強です。

 

She had yielded to him, through weariness, but she had only yielded what she set no store on.

 

これを行方昭夫さんは次のように訳しています。


彼女は疲れ果てて、要求に従ったけれど、与えたのは彼女が大事だと思わないものだけだった。

 

この訳、なんだか腑に落ちないところがあります。

 

「had yielded to him」と「through weariness」の順序を入れ替えたはなぜ? 「through weariness」がカンマで挟まれているってことは、「She had yielded to him but she had only yielded what she set no store on」に「through weariness」をさしはさんだってことだよね。語句が挿入されているときは、その情報の順序を崩さない方がよくないですか。

 

「weariness」って「疲労」なの? この直前の文は「だが、最初の数週間は、彼女が与えてくれるもので満足し、有頂天だったものの、その後は幸福を味わうことはまずなかった」ってなってるよ。楽しく過ごしていたのに疲れ果てるって、おかしくない?

 

この「but」って逆説なの? 「through weariness」を挿入する前の「She had yielded to him but she had only yielded what she set no store on」だったら完全な逆説だけど、「through weariness」がさしはさまれたことで、ちょっと変わってくるのではないかな?

 

この3点を考慮して、自分で訳を組み立ててみました。


彼女が彼に従ったのはいやいやそうしていたのであり、彼女が与えたものは、自分が軽視していたものだけだったのだ。

 

形容詞「weary」の名詞形が「weariness」で、「weary」には、「あきあきした」、「うんざりの」、「退屈な」という意味もあるということは、この「weary」は「あきあき、うんざり、退屈」の名詞形なのではないかと思うんです。「through」は手段ですから、「あきあき、うんざり、退屈によって」ということになり、つまるところ「いやいや」という意味ですよね。

 

直前の文と合わせてみましょう。

 

だが、最初の数週間は、彼女が与えてくれるもので満足し、有頂天だったものの、その後は幸福を味わうことはまずなかった。彼女が彼に従ったのはいやいやそうしていたのであり、彼女が与えたものは、自分が軽視していたものだけだったのだ。

 

こっちの方がしっくりくるような気がするのですが、どうでしょうか。

 

もしかしたら、数週間後に自分の訳を読み直してみて、「あれ、行方昭夫さんの訳でいいんだ」と気付くのかもしれません。行方昭夫さんが書いたモームの解説書で勉強していると、そういうことがよくあるんです。